コーラは飲みませんよ。
ずーっとブログを更新しないで、早くも年の瀬になってしまいました。
12月半ばに卒論を出し終えてから、私はほとんど進んでいません。一度前進し始めたのですが、また完全に止まってしまいました。進むというのは、将来とかそういうポジティブなものに向かってです。
この止まりっぷりには私も少し焦っています。
そういえばこの前、前進しなきゃならないという強迫観念にとらわれているの?とある人に聞かれました。それは私が、『ノルウェイの森』の登場人物たちがそういう強迫観念にとらわれてないところが自分と全く違うと言ったからなのですが、みんなそういう思いには駆られていないのでしょうか。それじゃあ、みんなが日々前進しているのは強迫観念ではなくなに故なのでしょうか?
先日、社会人の若い人たち(なんか言い方が変ですね)や就活生の集まる勉強会で、大学の友人たちと美術のことを話しました。全くちゃんと話せず、とても恥ずかしかったのですが、勉強会を主催している社会人の方に「美術に対する愛を感じる。そういう人の存在は大切。」みたいなことを言って頂きました。それは正直とても嬉しかったです。
でもそれが私の一番いけないところのようです。美術を仕事にしたいのなら、今みたいに美術を恋愛対象みたいにしていたらやっていけないみたいだと最近気付きだしました。仕事に失敗するたび失恋してたら身がもたないですからね。そして今ちょっと身がもっていないという。
どうしてこうも私はすべてが感情的なんでしょうか。やだなあもう。
でも卒論を出してから私は結構たくさん小説を読んでいて、そして文庫本の小説の最後に必ずついている「解説」というものを読むようになりました。「解説」を読んで買う本を決めることもあります。解説は文芸批評家というより他の作家が書くことが多いみたいですが、それが結構差がある。
自分の書く本編の文章を本気でやらない人はいないだろうけど、解説は本気でないものが明らかにある。本当はいい小説なのに解説が本気でなくて、私が買えてない本もたくさんあるんだと思います。「本気」っていうのは、その勉強会の方が言ってくれた「愛」とイコールですよね。やっぱり仕事に愛は必要?
なんで愛もない本の解説を請け負ったのか。そういうのを大人の事情というのでしょうか。悲しい事情です。
山崎ナオコーラの小説を2つ読みましたが、どちらの解説もナオコーラというペンネームについて触れていました。ロボットっぽいとか、男性っぽいとか、コーラを連想させるから商業主義っぽいとか、そこから紀貫之の土佐日記の話になって、男性が女性を装って書くことの反対のことが行なわれている、みたいに展開していく解説文もありました。こういう展開はそんなに驚きは感じないけど、やっぱりナオコーラっていうペンネームは誰でも触れたくなるもので、言葉力がすごい。しかもカタカナなのに外来語っぽさを微塵も感じさせないことがすごい。ナオコーラっていう言葉がそのままぽこっと沼から突然沸いたみたいです。70年代風の俗っぽい匂いがするけど(70年代がどうだったかなんて知らないけど)、洗練されている。どんな風に暮らしたら、こういう言葉がぽこっと沼から現れるのを見逃さないでいられるのかが知りたいですね。
それからミーハーっぽく今更『ノルウェイの森』を読みました。もちろん映画を観て(笑)。冒頭にも触れましたが、あれを読んで以来なんかものすごく影響されているような気がします。ハルキストという人たちがいるし、私はやっぱり『ノルウェイの森』以外の村上春樹の本は読みそうもないので小説について色々語るのはとても憚られますが、魅力的な登場人物たちに憧れました。でも直子にも緑にもハツミにもレイコにも私はなれそうにないので、第5の女性登場人物にいそうな感じになりたいのです(笑)。なんか自分で言ってて恥ずかしいです。
話は戻りますが本当にそろそろ前進したいです。沼でズボズボやっているこの状況を何とかしたい。はやく抜け出して、沼からぽこっと現れる面白いものを見つけられるような余裕を持ちたいです。しばらくじっとすべきか、誰かを頼ってみるべきか。でも相談する言葉がまとまって出てこないのですね。そもそも人にちゃんと悩みが伝えられるなんて、もうその時点で相当頭はすっきししていて、本当は相談する必要なんてない気がします。
いろいろ難しいことだらけです。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント